こんにちは!
私は雇われインストラクターを卒業して在宅起業を目指しているまいです!
現在ピラティスインストラクターをする傍ら、在宅で自分のサービスを世に出すために奮闘中です!
好きな仕事で収入を得ながら自宅で家族との時間を大切にできる働き方
そんな理想を実現するためのステップを、このブログで発信していきます!
今回はそんな私の自己紹介をご覧ください。
基本情報

名前|まえだ まい
ピラティスインストラクター / オンライン秘書
1986年12月19日
五黄の寅年生まれ
『五黄の寅』は非常に強い運勢やエネルギーを持つと言われてます
横浜在住
ドラマ大好き!時間があったらドラマ観たい!
家族でキャンプに行ったり、推し活したり休日もしっかり楽しみたいタイプ
経歴|
2009年
新卒で株式会社ニトリに就職
海外含めた転勤ありの総合職社員として働く
2017年
結婚と同時に退職。
その後人材情報サービス企業で営業アシスタントとしてパート勤務。
2019年
パーソナルトレーナーとしてフィットネス業界に転職。
正社員のインストラクターとして働く。
同年長男妊娠。
2020年
マタニティピラティススタート。
その後長男出産
インストラクターの資格取得
2021年
マタニティピラティス・産後ピラティスの資格取得
2023年
長女出産
2024年 フリーランスとして活動開始
幼少期〜中学校

1歳の頃父の転勤で大阪から横浜に引っ越してきました。
私の一番古い記憶はこの頃住んでいた社宅のアパート。
どんな子供だったのでしょうか。
幼稚園
子どもの頃はいわゆる「おてんば娘」でした。
当時は父の会社の社宅に住んでおり周りも子育て世帯が多く、子ども多かったので遊びに困らなかった記憶があります。
その頃の遊び
・坂道をスケボーで下る
・自分よりはるかに高い塀を飛び降りる
・相撲
・キャッチボール
男の子が多かった影響か外で遊ぶというと上記のような遊びをよくしていました。
そして当たり前ですが怪我は絶えなかったです。
小学校
おてんば娘は変わらず健在で体を動かすことは大好きでした!
しかし10歳の頃に膝の大怪我をしてから少し変わったように思います。
実は左膝の前十字靭帯損傷で全治6ヶ月の怪我をしてしまいました。
大人なら即手術の大怪我も、子供すぎて手術することができず自然治癒を待つことに。
結果リハビリ含めて1年近く病院に通うことになってしまいました。
中学校
膝の怪我の影響もあり、中学ではスポーツはやらずに吹奏楽部に入部。
しかし5歳のことから患っていた喘息の悪化で1年で辞めてしまいました。
また他にもクラスや部活に馴染めず1人で過ごすことが多かったため、正直楽しい思い出は1つもありません。
故に地元の友だち、という存在も1人もいない現実。
わたしが地元にあまり固執しないタイプなのですが、これが理由だと思っています。
”地元の友だち”という存在がいないことが
実はコンプレックスです
自分の存在価値を見失った思春期でした
高校〜大学

中学時代の一件で他人に興味を持つことが怖くなってしまい、人間関係を築くことに苦手意識を持ってしまった思春期。
それでも”仲間”という存在を得たことで『人間嫌い』を克服できたと思います。
私の青春はここに詰まっています。
高校
私は地元の公立校に進学しました。
しかし中学の頃よりは格段に楽しい学校生活を送れて楽しい思い出もたくさん!
中学生の時に塾で仲良くなった友だちと同じ高校だったのもあり、新しい友人と青春を謳歌しました。
毎回ドキドキしていた遠足も修学旅行も楽しい記憶が残っています。
この頃の写真を見返すことは怖いと感じません。
たくさん笑っている自分と出会えるので、振り返るのも大丈夫。
また高校ではダンス部に入り放課後を部活の仲間と過ごすという、中学時代にはなかった学校生活がありました!
仲間と1つの作品を作り上げる楽しさと難しさ、そしてチーム運営の基礎を学んだように感じます。
この頃は人並みに人間関係に悩みながらも、充実した時間を過ごせました。
大学
大学では建築デザインやインテリアコーディネートを勉強しました。
特に私が興味があったのはカラーコーディネート。
ゼミは色彩や照明計画を専攻する先生のもとで研究しました。
卒業論文ではカラーコディネートや色が空間に与える印象などをテーマに執筆。
先生と共にさまざなお店に協力依頼を求め、照度の測定、色環境の考察などを行い
忙しいながらも楽しい研究でした。
また大学ではサークル活動にも力を入れて、大好きなダンスを続けます。
ここで出会った仲間は今でも仲良くしており、かけがえのない存在です!
これまで人間関係に良い思い出がない私ですが、大学生活は人生で1番楽しい4年間だったと思います。
就活後に起こったリーマンショック

実は大学4年生でリーマンショックを経験しました。
就活では早々に内定をもらって4年生の間はサークルにバイトに明け暮れる毎日。
その時に突如訪れた世界的な金融危機。
私もまた就活再開する必要があるのでは…?と不安に感じました。
当時の就活生はかなり影響を受けたのではないでしょうか。
実際私の周りでも秋以降友人が内定取り消しにあったり、内定先の会社が倒産したという話を聞き、自分も同じようになるのでは?とそわそわする期間がしばらくありました。
結果的にはリーマンショックの余波は受けたものの、会社からは内定取り消しを受ける内定者はいないことを聞き無事に入社することができました。
人間関係を築くことに苦手意識があったけど
”仲間”という存在を得たこの期間
サークルの仲間、新卒同期は今でも心の拠り所です
社会人

もともとインテリアのコーディネートをしたいと思って就活をしていた私。
ニトリへはインテリアコーディネートや商品のカラーコーディネートをする部署にいくことを目標に入社!
最初は現場配属になると聞いていたので、当時5年後に〇〇部へ異動する!
と高らかにビジョンシートへ書いてました。
(のちに全くもって無理だということを思い知ります)
海外を含めた全国転勤がある総合職社員として入社し、最初の配属が宮城県。
縁もゆかりもない土地での新生活はとても不安でしたが、
せっかくなら思いっきり楽しもう!と思い宮城に住んでいる間に東北を満喫しました。
最初の数年は店舗で業務をすると最初に言われていた通り、私は約6年間店舗で業務を担当。
店舗での最後の1年半は部下30名を統括するマネージャーとして働きました。
役職者として店長、副店長が不在の時は店舗責任者として稼働する日も。
店舗から初めて別部署へ異動したのが、退職まで働いたリフォームを含めたトータルコーディネート、法人向けの家具コーディネートなどを担当する部署です。
元々目標としていた部署とは異なりますが、コーディネート担当する仕事をするのはとてもやりがいを感じ、
営業としてプレゼンボードを制作しているは時は、何より楽しく仕事ができた時間でした。
人生観を変えた東日本大震災

当時社会人2年目の終わり、東北の暮らしにも慣れ仕事にも慣れ楽しんでいた頃。
忘れもしない2011年3月11日(金) 14:46
会社の同期、お店のアルバイトの子と遊んでいる休日に仙台駅近くで被災しました。
私が当時住んでいた岩沼市にも最大波10mを超える津波が襲い、同市に住んでいた同僚の家は基礎を残して根こそぎなくなってしまいました。
当時家から10分ほどの場所はこのような感じでした
4階建のマンションの3階ベランダに車が突っ込んでいる
アパートの屋根に瓦礫が載っている
田んぼの真ん中にトラクターが逆さまに刺さっている
ペットだったであろう動物や家畜の死骸がそこらじゅうに転がっている
(人間のご遺体のありました)
行方不明の人を探すため毎日何箇所も行った避難所から、遺体安置所に行き先変えた時の心臓が潰れてしまいそうな気持ち。
あんな思いはもう2度としたくないです。
町が一瞬にしてなくなってしまったあの光景は一生忘れないと思います。
人は簡単には死なないというけれど、自然の前には無力なこと。
あの時あぁしていれば、もっとこうしておけばと思っても、もう遅いことをこの震災で思い知りました。
何ごとも全力に
明日死ぬかもしれない気持ちで
やりたいと思ったことはとにかくやってみる
このように思って生活するようになったのは間違いなく震災がきっかけです。
人生に後悔がないようにやりたいと思ったことはやる
この気持ちで今まで行動してきました。
社会人になったこと、震災を経験したこと
この頃は人生の中でも激動の期間
私が生きていく上で大切にしていることがここで確立されました
はじめての子育てそして復職

2020年2月長男出産
コロナ禍真っ只中での子育てはなかなか大変のものでした。
翌年の4月に保育園に入園するまでの育休期間は
正直思ってたんと違う!!
・相談できるはずの行政機関が空いていない
・赤ちゃん教室などは軒並み中止
・会いたい友だちや家族に会えない
もっとこうしたかったを挙げたらキリがありませんが、
妊娠中に『出産したらこんなことしよう!』と考えていたことはあまり叶わなかったです。
そして保活にもコロナが大きく影響し、思うように園の見学などはできませんでした。
しかしそんな状況でも見学を受け入れてくださった各保育園にはとても感謝しています。
その後
約1年の育休を終え、2021年4月復職しました。
時短での勤務も始まったこのころ、最初に感じたのが『1日が超早い』です。
5:30 起床
6:00 朝食準備・お弁当準備
6:30 子ども朝食・身支度
7:45 保育園に送る
8:30 出勤
16:00~16:30 退勤
17:30 保育園お迎え
18:30 晩ごはん
19:30 お風呂
20:30 子ども就寝
23:30 就寝
仕事の時間はギュッと短くなり、自分の仕事をする時間を確保することが最初はとても難しく感じました。
そして時短勤務になって初めてのお給料…
少ない…!
働く時間が短くなっているのでその分お給料が減っているのは当たり前。
しかし思った以上に収入が減って夫の収入頼りな面が大きくなりました。
そして子どもが体調崩して保育園に行けない日の多さ!!
特にコロナの影響があり病気をした後の登園にはより厳しい決まりがありました。
またコロナの感染者が園児、保育者ともに増えるとクラス閉鎖で2週間登園ができなくなったり…
とにかく全然仕事に行けない!
有給はすぐに使い果たし、欠勤扱いになる。
そうすると収入はもっと下がってしまう。
正直、何のために働いているんだ…
と思うようになりました。
それでもインスストラクターの仕事が好きだし、何より私のレッスンを楽しみに頑張ってくれているお客様と会えるのが嬉しいこと。
しかしこう言う『気持ち』だけで頑張るのことは、ずっとは続かないのが現実。
・同僚にどんな風に思われているだろう…?
・みんな笑顔で出勤代わってくれてるけど、
・私は彼女の代わりに出勤することは難しい
やってもらってばかりでお返しすることができない状況が続くと、どんどん自分の価値が下がっていくように感じざるを得ません。
そして『申し訳ありません』と各所に謝ってばかりで自己肯定感も地に落ちる日々にとても疲弊していました。
2人目妊娠後の産休に入るまではとにかく頑張ったけれど、
次の育休復帰、正社員は正直無理だ…と思っていました。
これが自分のキャリアを見つめ直すきっかけとなったのです。
これまで記したことについて『自分はきっと大丈夫』
そんな風に思っていた出産前に戻って教えてあげたい
それくらいメンタルもフィジカルも辛かったです
現在
現在は2人の子どもを持つママとしてフリーのインストラクターへ転身!
インストラクターのお仕事以外にも在宅で事務サポート、バックオフィス業務を中心にオンライン秘書としても活動しています。
※2025年1月現在、先輩インストラクターさん2名、他1事業主様サポート中
そしてインストラクターとして在宅で働くことを叶えるべく奮闘中です!
インストラクターという仕事はスタジオでお客様と対面してはじめて成り立つ仕事だと思っていました。
しかしコロナ禍を経て『オンラインレッスン』というものも広く認知されたと思っています
インストラクターを続けたいけど外で働くことが難しいと感じた時、『それでもやっぱり諦めたくない』と強く思いました。
自分のサービスを世に広めて在宅ワークで月収50万を達成し経済的に自立し、
夫に頼りっぱなしな人生を卒業したいと思っています!
さいごに
ここまで読んでくださりありがとうございます!
今の私はまだまだやりたいことを叶えるために歩みを進めている真っ最中です。
インストラクターとして働きたくてもライフステージの変化で考え直さなければならない方
お仕事関係なく『働き方』に悩む方はとても多いと思っています。
結婚、妊娠、出産、子育て、介護…
生きていればそのステージごとに悩みは多く出てくるでしょう。
私自身インストラクターとして生涯活躍したい!と思ってはいますが、
実際問題スタジオで働き続けるのは現状難しいと感じています。
そして時短勤務という形をとっていく以上、経済的自立も叶わないと思い夫頼りの生活も見直したいと思っています。
オンラインでレッスンをおこないたい
インストラクター業をライフステージの変化で諦めたくない
経済的に自立したい
とけっこう欲張りな性格が垣間見えましたね。笑
しかし人生1度きり!やりたいことはやった方が良い!と思っているので、
私はどれも諦めたくありません!
集客に関して全く知識のなかった私は、独学で学んで失敗。
『やはりプロに教えてもらおう!』と思ってスクールに入会しました。
しかしまだまだ自分で事業をするには足りない知識がある。
それがWEBマーケティングの知識だということに学びを進めていくうちに気がつきました。
『在宅で働きたい』
そう思ってもなかなか理想を実現することができていなかったのですが、
このブログではこの私の想いを叶える軌跡を綴っていきます。
上手くいかないことの方が多いと思います。
しかしこの歩みを記録していくことで同じように悩む方の道しるべにしていきます。
まい